珠洲市総合病院

珠洲市総合病院  舟木 優子さん 【お名前】 舟木 優子さん
【病院名】 珠洲市総合病院
【役職名】 総看護師長
【これまでのご経験】
専門学校卒業→県内の公立病院に入職→珠洲市総合病院で勤務。
内科を中心に、消化器内科、内視鏡、NST(Nutrition Support Team/栄養サポートチーム)、訪問看護などをご経験。内視鏡技師免許も取得 ※取材日…2025年6月。  

総看護師長のお仕事について

震災後は退職者が続いていまして、どうやって今の人員の中から無理のない応援体制を作るかということが課題です。メンタル面が落ちたり、生活状況が不安定だったりするスタッフがいるので、直接私が一人ひとり面談できるわけではないのですが、師長たちから挙がってくる情報を基に、どうすれば少しでも元気に働いてもらえるのか、看護体制や業務改善のことを考えています。
今年の4月から総看護師長になり、新たなリリーフ体制などを師長たちと共に考えて少しずつ実現しようとしているところです。

看護師を目指したきっかけ

私は珠洲出身です。高校を卒業した後に県外の専門学校に行き、看護師免許を取得しました。
元々看護師を目指そうとはそんなに考えていませんでしたが、祖母がいわゆる昔のお産婆さんだったり、いとこが医師を目指すっていうのを聞いたりして、私も手に職が欲しかったので、じゃあ看護師かなと思いました。
学校卒業後、石川県内の大きな病院で働けたらいいのかなと思い、金沢にある公立病院に入職しました。そこで配属されたのが消化器内科でした。
その病院で2年ほど働いた後に、家庭の事情で珠洲に戻りました。そこからずっと当院で働いています。

看護師としてのご経験について

今までの経験としては内科系が主だったのですが、内視鏡が一番長く8年で、そこで内視鏡技師免許も取得しました。
その他にNST(Nutrition Support Team/栄養サポートチーム)の経験があります。主任になったあたりでNSTの委員長になってと言われ、NST専門療養士の資格をとりました。摂食嚥下や栄養、口腔ケアなど、多職種と連携して仕事をする楽しさを知りました。
能登地区には公立病院を中心に「能登NST研究会」があり、合宿したり基礎講座の研修をしたりと、新たな学びや人との出会いがあり、それまでは内視鏡一本槍でしたが、NSTに出会ったのがまた一つ転機になり、視野が広がりました。
その他に大きな転機になったのが、一昨年副総看護師長になったことでした。

当院に入職した頃は患者さんも看護師もたくさんいて、本当に活気があり、忙しくとも楽しく、病院が頼りにされてるっていう実感があったと思います。
今マスクをしていると顔が見えないので、患者さんは看護師の名前も分からないと思います。内視鏡の部門にいたのがもう30年前になるのですが、その頃の患者さんが今になっても、「あの時、内視鏡で背中さすってくれたよね」と覚えていてくださるのです。そういう風に言われると、あの頃はいい時代だったなと思うのです。本当に青春でした。

訪問看護を通して学んだ地域医療の在り方

当院には院内併設の訪問看護があるのですが、師長になってから訪問看護の経験をしました。自分で運転して患者さんのお宅に伺ったり、在宅看取りもしたりしました。そこで地域医療の在り方を学ぶことができました。
訪問看護に携わっていた頃はコロナが流行っていたので、入院すると感染防止対策のためご家族が患者さんと会えなくなるのです。しかし、訪問看護で看取りをすれば、ご親族みんなが会いに来れます。幾つもの本当に印象的な看取りがありました。
当院の医師は地域医療にとても理解があり、担当の患者さんが亡くなった場合は、自宅に往診し看取りに出向きます。多分珍しいのではないかなと思うのですが、患者さんの希望があれば、当院はどの科の先生も往診に行きます。
例えば入院時に受け持ちになった先生がいたとして、退院時に訪問看護をした方がいいとなったら、その訪問看護の主治医にもなるのです。外来から入院、在宅、看取りまで同じ医師が診てくれることで、院内で情報共有しやすいですし、カルテも一緒なので端末を外へ持っていって薬も出せます。仮設住宅周りをしてくださってる団体と協力して、その端末を持って今月まで師長たちも毎週仮設の集会場で、当院の薬剤師と共に健康相談を行っていました。

訪問看護をしていた時は本当に楽しかったです。この間内科の中を歩いていた時、ある患者さんのご家族とお会いしました。患者さんの希望で、ご自宅で最期ぎりぎりまで介護されたご家族で、「あの時皆さんが来てくれたから介護が楽しかった。死ぬまで忘れません。」と言ってくださって、泣かれたことがありました。「ああ、やっぱり(在宅で)良かったんだな」と感じました。私も一緒になって泣いていたのですが、そういうように感謝されることが、この最近のマスクを常にしている状態では、なかなか味わえないのではないかと思います。看護学生さんたちもそうかもしれないですが、患者さんから名前を呼ばれることがなかなかないと思います。「あの看護師さん」や「若い看護師さん」というように、名前が分からないから特徴などで呼ばれることも多いみたいです。

また、Z世代の方たちはお年寄りとどうやってお話ししたらいいかが分からなかったり、話が続かなかったりするようです。若い看護師たちは真面目で、仕事で言われたことはきっちりミスなくやろうとします。しかしそれが、何というか「看護」というより「業務」になっていることがあるのです。ちゃんとやっている方もいるので、一概には言えませんが、業務をきっちり終わらせたらそれで終わり、という感じがします。そこでベテランの看護師たちからすると、もっと患者さんと会話してほしかったり、考えてほしかったりするので、物足りなさを感じるところがあります。
病院で治療をすればそれで終わりではなく、その先の患者さんが仮設住宅に帰ったら、退院したらと想像して、この方に何が必要だろうというところまで考えてほしいなと思います。
昔の仕事のことや、お孫さんのことでも花でも畑でも、大体その辺の話題をすると、患者さんは止まらないくらいお話されるのに、そういう話題のきっかけ作りが分からないこともあるようです。普段の生活でお年寄りとお話しすることが、あまりないのかもしれません。

震災後に携わった災害時対応

2024年の震災を機に、災害時対応をメインにやることになりました。当時の総看護師長が、これをやりなさいと指示するのではなく、「自分がやらなくてはいけないと思うことやっていきなさい」という感じだったので、去年1年間は看護科付けでいろんなことをやらせてもらいました。
次に災害が起こった時に対応できるようにということで、震災後の初期の立ち直ってもない段階でしたが、院内全体で対応を考える取り組みが始まりました。その中で災害委員メンバーや当院のDMATスタッフと共に、災害対応のことを中心に携わるようになりました。

災害時、具体的な動きをするための、「アクションカード」というものがマニュアルの中に入っていました。しかし、震災の時には全然役に立たなかったのです。カードはマニュアルのところに置いておいても、災害時に誰も見ないし取り出せないのです。そこで、カードをそばに置いたり、必要な場所に吊り下げておいたりするようにし、全部署の分を作り直しました。

震災が2024年1月ですが、3月に全部署の振り返りを皆でしました。そして災害時の対応をスムーズに行うために組織図の見直しをし、8月に本部の机上訓練をしました。
基本的に訓練は人員がいる状態で行うと思いますが、震災時に災害対策本部にはたった二人しか集まりませんでした。震災の規模によっては少人数しか集まらない場合もあるのに、どうやって災害対応を展開するのか、ということを訓練でしたことがなければ、実際の災害時に対応することは難しいです。
地震が多い土地柄、災害訓練は毎年本当に一生懸命やっていたのですが、道路状況が悪くてスタッフが急いで来れない、という想定はしていませんでした。

そこで新たな訓練の中で、最初に一人二人が病院に駆けつけてきた時から災害対応を広げていく練習をしました。
そして、震災から1年2ヶ月後の2025年3月に院内全体でのトリアージ訓練を行いました。その時は職員の中から80数名が集まってくれました。当院の規模からすれば沢山参加してくれました。もしも次に災害が起きたとしても、ある程度のことは動けるかなと思っています。

震災時に大変だった「水」と「トイレ」

震災時に大変だったのが、トイレや水が使えないことでした。
水が使えないと透析ができないので、今回大規模搬送で透析の患者さんは全員搬送になりました。
その際の搬送や調整が上手くいかず、道路状況が悪すぎて搬送された方が戻ってくる等、いろんな事があったのです。全員を送り出した時には透析担当の看護師たちは泣いていました。

そして一番大変だったのがトイレです。そもそも人がいないので、水が使えないからといってトイレの使用を止める人もおらず、外来のトイレは汚物で大変な状態でした。前総看護師長が出勤後に最初に指示した仕事がトイレ掃除でした。
その反省があるので、災害時のトイレのアクションカードまで今年作りました。 ただ、結局そういう風に事前に決めてあっても、どこまでできるかはその災害の規模にもよります。今度大災害が起こり、物流が滞って物資が届かないとなると、また話は全然変わります。しかし、災害の反省を生かして、次に備えようという姿勢が大切だと思っています。

コロナ禍・震災後の職員の変化

コロナや震災で看護師の横の繋がりが少なくなりました。感染予防のため、フロア同士での行き来がなかったり、会議も一か所に集まることもあまりしてなかったので、自部署以外の交流が少なくなりました。
それにプラス震災で、何かが崩壊してしまって組織力が落ちた気がするのです。

震災で一時的に患者数が一番膨れ上がった時が160名程でしたが、もう医療機能が維持できないとなった時に、大規模搬送で20床まで減らしました。平時は大体3病棟で90名程度と、そこまで多くはなかったのですが、サイズダウンして一つ病棟を閉鎖したり、DMATや支援ナースさんたちが来てくれたりすることで、一旦看護師が充足したような形になりました。
今までだったら超過勤務で退勤時間に帰れなくなることもありましたが、震災後支援を受けることで、時間通りに帰れたり、お休みもとれたりするようになりました。

それは良かったのですが、今度医療機能を元に戻そうとした時に、なかなか頑張りがきかないようになってしまいました。こんな生活環境の悪い時なので、やはり皆さん早く帰って子ども達と過ごしたいとか、お休みが欲しいし残りたくないというのが明確に出てきました。会議の出席率がすごく悪くなったり、何か頑張ろうよと言っても、私たちも被災者だからそんなに無理を言わないで、という感じになったりしてしまっていました。
そして職員も元気がない状態で、ここからどうやって一致団結して、もう一度向かっていくかが課題となりました。

もう一度一致団結していくために

新聞、テレビにも出てると思いますが、正直なところ経営が悪化してるので、看護師達も頑張って病院に貢献してもらわないと困るのですが、そんな気持ちになるのはなかなか難しいことだと思います。
そこにきて、奥能登の公立4病院の統合の話も出てきて、自分達の職場がどうなっていくんだろうっていう不安感もあって、一緒に頑張ろうっていう気運がやはりなかったです。そこをどうやって盛り上げていくかっていうことを、今は一生懸命師長達と一緒に考えているところです。

また、震災の時に師長達はスタッフ達の辛い気持ちや状況を受け止めていましたが、管理職である師長たちは休まなかったり、辛い気持ちを吐き出したりできる状況ではありませんでした。
昨年度1年間、副総看護師長という立場で感じたのが、情報が全然スタッフに伝わっていないということでした。そこで、看護科の方向性や何を目指してるのか、何をしたいのか等、もっと情報をオープンにしたいと考えました。

そこで「組織力のアップ」と「情報の見える化」をしようというのを目標の中に掲げました。その一つに情報を共有する場として、看護師専用の掲示板を作ってもらいました。例えば就職情報交換会や看護フェアに参加した際の報告を写真付きで皆に見てもらう、というようなものです。
今まではコロナのこともあり、師長からスタッフに情報が伝えられるというような形で、そうなるとどうしても情報がタイムリーではなく、また全員に伝えるというのはやはり難しいものです。
そこで、活動報告や協力してくれた皆さんありがとうという感謝をすぐに見て欲しいと思いました。今後は掲示板を通して、なるべく看護科の思いが伝わればいいなと思っています。

いつもは4月に主任と師長合同で目標について発表するのですが、皆の勧めもあって、私のだけ今回は動画で全看護職員に発信させてもらいました。その他に、これまでコロナ等で止まっていた院長と事務局長の経営や方向性の話も再開しました。新病院のことも話してもらって、ちょっと皆の心がすっとしたということを聞きました。
それも主任会でそういうことをしてほしいという声があったのを聞いて、行動に移しました。小さいことからでも何か実現できたら、皆がまた「もうちょっと頑張ろうかな」って思ってくれることに繋がったらいいなと思っています。

師長同士が支えあえるようにするための取り組み

震災で大変な時に、師長達の負担が大きかったことを反省して、この4月から配属されたことのない部署の師長同士をペアリングしています。意外と師長同士でも、未配属の部署だとお互いの詳しい仕事内容は知らないものなので、まずは知るところから始めています。
地震で全ての手術と重症患者の対応が1つの病棟になってしまったので、忙しいのは急性期病棟です。そこで透析の師長は、午後の透析の患者さんの対応が終了して手が空いたら急性期病棟の機械浴(機械によって患者さんの入浴をサポート)のところにお手伝いに行くという風に、人が少ないのでできるだけリリーフに行くようにしています。
どうやって手伝えば、急性期・重症の病棟のスタッフがサポートされていると感じられるだろうと考えています。忙しい病棟のスタッフからの実際の声として、私たちをサポートしてくれると喜んでいるようです。

何かあった場合も、いきなり私に話を挙げるのではなくて、ペアの師長同士で相談したり愚痴も言ったりすればいいと思います。皆仲いいですし、はっきりお互いに言い合うように、震災後少し変わったのかもしれません。
コロナ禍では、食事会など皆で集まるようなイベントは慎んできました。そういった会でコロナ感染してはいけないという思いがありました。現在は感染状況も緩和したので、春から送別会や歓迎会をしました。そういうところでコミュニケーションがとれるようになってきました。

震災から1年5か月が経って

職員全体のメンタルが追いついているかというと、まだこの春ぐらいまで元気がなかった職員もいたりしますし、スクリーニングやストレスチェックをすると、あまり良くない結果の方も多かったりします。震災から時間は経ちましたが、まだまだ影響があります。退職を希望される職員も少なからずいる状況です。
離職の理由としては、買い物するところにも困るし、家を建てるなら別の地域でということだったり、お子さんの教育のことだったり、いろいろあります。学校のグラウンドに仮設住宅が建っているので、スポーツができないということもありますし、そもそも子どもも減っています。仮設住宅での暮らしと金沢での暮らしでは、生活の利便性という点で全く違います。
子どものことを考えると、ここで生活するっていうのは、能登の人が好き、自然が好き、そういう人じゃないと難しいかもしれません。看護師は手に職があるので、珠洲から出てもどこでも需要がありますから。
その中でも今年は新卒採用で1名、前年度に中途採用で1名と2名採用しました。修学資金を受けて働いてくれる方もいますが、修学資金を返し終わったら離職される方もいらっしゃいます。 看護師の年齢層はニ極化といいますか、若い方とベテランで、その真ん中の世代は少ない状況です。

これから看護師さんになる方へのアドバイス

「看護師は忙しい」というイメージがあり、患者さんが自分からお話しすることを遠慮されてる部分もありますが、患者さんの生活やその人となりを知るには、やはり聞くことが重要です。
そして患者さんを知ろうと思ったら、質問はいろんな形で出てくると思います。患者さんのところに来るたび、「痛いですか?」「具合悪いところありませんか?」というような、通り一遍の症状の質問しかしない看護師が1日3回も来たら、私だったらもう来ないでほしいなと思うだろうと思うのです。工夫して声掛けするのは難しいとは思うのですが、日頃から人に興味を持ってお話しするということを心掛けると、実際の現場で役に立つと思います。

面接で学生に質問すること

総看護師長になったのは今年の4月からなので、面接はこれからなのですが、ダイレクトに言えば「修学資金を返し終わった後も、当院で働いてくれますか?」ということは聞きたいです。
今年他の部門で、石川県と地縁のないところからIターン入職しました。釣りが好きということが、珠洲に来た動機の一つのようです。自然豊かなところで働き方を変えてみたいなと思う方が来てくれればいいなと思います。7月に祭りがあるのですが、祭りが好きだから珠洲に残っている職員もいます。

震災後の暮らしについて

私の自宅はもう公費解体しましたが、実家も祖父母の家も公費解体しました。私の人生の半分がどこかへ行ってしまったような気持ちです。すごく悲しく、寂しい出来事でした。当院の職員の中で家を潰してしまった人も大分いて、再建を考える人やどうしようと考えている人がいます。その揺れている人達が、どれだけ珠洲に留まってくれるかなと思います。
2025年6月現在でも、看護師の中でも仮設住宅に住まわれてる方が全体の20%ほどいます。現在もとても不自由な生活だと思います。そんな中で仕事に出てきて、夜勤もこなしています。スタッフ全員が元気とは言えませんが、新たな生活再建に向けて住民の皆さんと共に、復興に向けて前に進んでいこうと、今できることを考えています。

灯台のあかりである病院

当院は市内にたった1つの総合病院です。4病院統合の話が出たこともあり、当院が無くなってしまうのではないかと、不安を感じている市民の方がいらっしゃると思います。
そして市民の方だけではなく、これから自宅等の再建のために入ってくださる業者や建設業界の方、そういういろいろな方達にとっても、24時間安心してこの病院にかかれる状態が大事だと思います。私はいつも言うのですが、当院は灯台のあかりみたいなものだと思います。当院に24時間明かりがついていることが大事です。

この病院から遠くの別の場所まで行ってと言われても、珠洲の高齢者の方は大変です。いつも私は朝に1階の再来受付機の前に立って、外来の患者さんをサポートしているのですが、皆さんやっと歩いてくるのです。皆さん先生に診てもらうので、前の日からお風呂に入って綺麗にして、病院行ったら誰かに会えるわと思って。病院は社交の場でもあるのです。そういう風に来てくださる患者さんを見ると、この患者さんたちのためにも、やっぱりここは何とかして残さないといけないなと感じます。

そういう中で今、市民の皆さんが待ち望んでいた歯科口腔外科ができたことは一つの明るいニュースです。
震災後は県の歯科医師会の先生がバスなどでサポートに来てくださっていたのですが、それが終わってしまった後、やっと地元の歯医者さんが再開しても診療時間・日数が短くなってしまっている場合がありました。また歯の治療のために、金沢や富山方面に通っている市民の方もいたようです。そのため、歯科口腔外科の開業は皆さんが待ち望んでいました。

震災の時に栄養状態が悪くて歯がグラグラになったり、水が無いから歯磨きもできなかったりで、口の中の衛生状態がすごく悪くなってしまっていました。避難中もカップ麺しか支給されない時もあったので、やはり栄養状態も悪かったのかなと思います。
そんな中、歯科衛生士さんが正規職員として3名採用になったことは、明るい話題です。
歯科口腔外科が診療しているのは週3回だけなので、残りの2日は看護科とコラボして、いずれ患者さんの口腔内の状態を見てもらう等をしてもらえたらと考えています。

看護師が珠洲で働くためには

街が復興し、ちょっとでも賑やかになって、住みやすく、いくら子どもが少ないとは言え、もっと教育環境が整ってくれたらと思います。そして買い物ができるところがもうちょっと増えたり、賑わいがあったらと。看護師も珠洲に暮らす住民なので、市の復興が重要ですし、何とかならないかなっていう希望があります。
お産ができるところがないので、新病院にお産の機能を作ってほしいと言う声はあるのですが、結局若者に特化したとしてもいずれは更に人が少なくなるのは目に見えています。若者だけには頼れないところがあります。そこで、シルバー人材になっても活躍できるような仕組みも必要だと思います。それは看護師も一緒で、結局地元に残るのは高年齢層の看護師なので、私も含まれるのですがプラチナナースたちがどれだけ残りたいかがカギとなります。
病院がなくなったら街の賑わいも作り出せないので、やはり病院は地域のインフラだと思います。
今は災害支援目的の方が多いですが、震災までは移住で珠洲に来られる方もいましたし、コロナ禍に拠点を珠洲に移された企業もありました。そういう方たちが何か協力して、街の賑わいみたいなものを考えてくださってるのはありがたいです。

休日について

プランターに野菜と花を植えてるのでそれを眺めたり、子どもたちが全員金沢にいるので、金沢へ買い物に行くこともあります。
子どもが高校生になるまでは、家族でよさこいをしていました。息子が旗を振って、私と娘2人が踊って、夫は見に来る、みたいな(笑)。踊ったり歌ったりするのが大好きな賑やかな家族で、明るいのが取り柄ですね。

好きな言葉

こちらは私の大好きな本に書いてあった言葉で、娘が色紙に書いてくれました。
師長時代はこの言葉を壁に貼っていました。
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一所懸命だと知恵が出る
中途半端だと愚痴が出る
いい加減だと言い訳ばかり
楽しくやればうまくいく
うまくいかなくなった時はやめて
楽しくなることを考える
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