令和6年能登半島地震での看護活動(1)

石川県立中央病院 登谷 美知子さん 【お名前】 登谷 美知子さん
【病院名】 石川県立中央病院
【所属】 ECU(救急集中治療室)
【資格】 災害看護専門看護師、災害支援ナース、DMAT、防災士
【これまでのご経験】
消化器外科・内科、ICU・集中治療室、ERなど。
看護師歴33年目。珠洲市出身。※取材年月…2024年6月。

地震直後について

令和6年元旦の地震当日は病院で勤務していました。
16時すぎ、休憩で控室に入った時に緊急地震速報が鳴りました。
私以外の家族全員が珠洲の実家に帰省していたのですが、一回目の電話をした時は繋がり、家族もそんなに動揺している様子ではありませんでした。
それから4分後に志賀町で震度7を観測する地震が起きた時、電話口で(家が)バリバリと音を立てるのが聞こえ、ギャーという叫び声とともに電話が切れてしまいました。もうその時は、「家が崩れた、家族も埋もれた」と思いました。※注:ご家族はご無事だったそうです。
その後は電話が繋がらず、成す術がありませんでしたが、私は地震が起きた際は災害対策本部に行かなければいけないという役割があったので、病棟の業務調整をした後、管理師長や事務日直の方と話し合って、まずは仮の災害本部を設置しました。
その後、幹部職員が続々と到着し正式に災害対策本部が立ち上がりました。

今回は大津波警報が発表されたので、周りの住民の方が沢山来られました。当時のマニュアルでは受け入れは1階になっていたのですが、災害対策本部の判断で1階は浸水の恐れがあるという事で、3階に案内しました。
乳幼児を連れている方で、ミルクやおむつを持っていないという方がいました。そこで病棟などの在庫を提供したりしました。また犬を連れて避難されてきた方もいました。

今振り返ると、病院だからいろいろ物資があるだろうと思われて避難されてきた方も多かったかもしれませんが、物資の在庫には限りがあるので、地域住民の方も皆さんご自身で、避難行動と避難する際の必要物品を日頃から考えておくのが大事だなと思いました。
津波は病院のあたりまで来ないようでしたが、住民の方の自己判断で帰宅される方や大津波警報の解除とともに帰っていかれましたが、一組の5人家族が翌朝まで会議室に滞在していました。
このように災害対策本部では住民対応の他、医療的ケア児や透析患者受け入れの調整などが行われました。

地震当日は何名の傷病者の受け入れが必要かなど、正確な情報が入ってこなかったのですが、翌日には被災地の様子も段々分かってきました。まずは当院の受け入れのキャパシティを確認し、受け入れ準備をしました。
看護部長も能登で被災していて当日は連絡がつかなかったので、副部長が災害対策本部に入りました。

地震翌日以降について

当院の看護部長も被災されておりながら、道が悪い中にもかかわらず翌日の昼には自力で病院に到着されました。そして部長も災害対策本部に加わり、看護師の人材が何人いるか、何人が能登にいるかなどを確認し、人数把握と調整が行われました。
また、全国のDMAT活動拠点が当院になりましたので、DMATの受け入れ場所の調整が必要になりました。傷病者の受け入れについてはDMATが主体となり、重傷の傷病者は当院で受け入れ、中軽症者は健康チェックを行い金沢市内や金沢以南の病院へ搬送するという、タッチアンドゴーという流れの確認・職員配置が決められました。
休日でもあり看護部の方でも人数が少ない中でコロナが流行ってきていたので、病棟の増設・看護師の配置を考えたり、外部のDMATの看護師の支援協力を得て、夜勤での勤務に入ってもらうなどの調整が行われました。

このような状況をみながら自分自身が災害看護専門看護師としてどのように動くとよいか、また被災地で活動をしたいと考え、看護部長に相談しました。地震発生後の夜は石川県看護協会で災害研修をいつも一緒に企画している看護師の友人に電話し、災害支援ナースの派遣について等の確認をとってもらえるようにお願いしていました。
その後、石川県看護協会が災害支援ナースを派遣することが決まったとの連絡を受けました。看護部長も院長に掛け合っていただき、被災地への派遣の許可をいただきました。
石川県内での大規模な災害であり、県内の看護師は自分たちの病院のことだけでも精一杯で、なかなか看護師もいない中での派遣でしたので、まずは第一陣として珠洲市と七尾市の避難所に3名ずつ看護師が入ることになりました。

被災地での活動について

災害支援ナースの活動期間は、3泊4日と決められています。
災害支援ナースは研修を受けていますが、現場が混乱している中で初対面の看護師と組んで被災地に入るので、不安もあると思います。その不安が現場の人たちに負担をかけるのが目に見えていましたので、現場を調整するコーディネーターが必要だと思いました。
私は災害支援ナースではあるのですが、災害看護専門看護師でもあるので、少し長めに被災地内に留まって災害支援ナースを受け入れて繋ぐ役割をしながら、現場で仕事をしようと思いました。そして、現地でチームの基盤を作ってきたいので、一週間は被災地に行かせてほしいとお願いしました。

第一陣の方が避難所の運営組織・環境整備など基礎を作ってくれていたので、被災地に入った時に申し送りを聞きすぐに活動ができました。
そして、地元の消防団員の協力を得て、地域の家を回って1.5次避難所へ行く方の搬送手段や手続きを調整するなど行政のお手伝いをしました。
行政の方も避難所から通われている方もいてお疲れだったのですが、ミッションがあるのでなかなか休めない様子でした。せめてそのお手伝いができればと思いました。

また、避難所の運営本部の方に負担をかけないように、災害支援ナースの中で次のナースにいろいろな申し送りをして、自己完結できるように段取りをしました。
第二陣までは県内の災害支援ナースでしたが、次に派遣されてくるナースは県外の方で、私がこの避難所から離れる時に、避難所をコーディネートするナースが一人いないと現場が混乱するなど活動に支障がでてしまう恐れがありましたので、現地の支援者派遣元の保健医療福祉調整本部に相談しました。
そこで、ある民間団体の医療チームが3月まで滞在するという情報があり、そのチームからナース1名がその避難所に常駐してコーディネートする役割をしていただけることになりました。そのナースのもとで新しく支援に入られる災害支援ナースや保健師、医療班が動く組織図を作りました。そうすれば県外の災害支援ナースが迷うことや困りごとがあっても、コーディネートするナースに相談ができます。
その仕組みを作って次の方へと託し、活動が終了しました。

被災地での滞在場所について

石川県内の看護師が被災地へ第一陣、第二陣と避難所に入った時は、人がいっぱいで隙間がなく、避難所で寝泊まりするのが難しい状況でした。
保健医療福祉調整本部のある珠洲市健康増進センターで、寝袋持参で宿泊が可能であると所長よりお話を頂いておりました。
そこでは、各医療班が利用されておりスペースも余裕がない状況でした。また民間団体等は、ベースキャンプを作って寝泊まりをされていました。
私たちは、珠洲市の知り合いの方のご厚意で、その方のご自宅で第一陣が寝泊まりさせてもらっていました。私も、車中泊覚悟で現地に向かったのですが、第一陣と交代でそのまま寝泊まりさせていただきました。
そこのお宅も断水状態でしたので、雪解け水や雨水をためて生活用水として利用されていました。

県外から来た災害支援ナースたちは、マイクロバスで順番に避難所に配置されます。
私は地元で土地勘もあり車もあるので、いろいろなところを移動して活動できますが、県外の支援ナースは移動手段がなく、バスから降ろされたらそこにしかいられません。
そして泊まる場所もどうしたらいいか困っていたので、避難所の一角を借りて、1つ余っていたパーテーション型テントを県外の災害支援ナース用の宿泊スペースとして確保しました。

被災地での困ったこと

避難所にはいろんな方が来られます。医療班などは調整本部で登録を済ませ、配置での活動を行うのですが、民間ボランティアや物資支援の方々など、直接避難所に来られることもありました。
ある避難所では、夜の安全を守るために避難者が当番で起きていたのですが、皆さん疲れて休んでいる夜中に物資を持ってこられ、「被災者と話をさせてほしい。」と電気をつけて撮影し始めました。そしてその人は持ってきた支援物資を運んでほしいと、避難者に言ってきました。
避難所の皆さんは寝ていましたし、夜間当番の方だけで運ぶのは困難です。そのことをお伝えしたところそのクルーはトラック1台分の荷物を玄関に置いて帰ってしまいました。
支援物資を運ぶ、分けることも大変な仕事です。支援して頂くときはその辺りを理解していただければと思います。

被災地での感染症対策

避難所ではコロナが蔓延してきていて、避難所利用者の方には全員マスクをしてくださいと協力してもらっていました。
そんなところにマスクなしで入ってくる外部支援者や訪問の方がいたので、玄関の前にマスク着用と表示する必要がありました。日々問題や課題が出てきて、それに対応するのにいっぱいいっぱいでした。

段々と具合の悪い方が増えていき、隔離についても考えなければいけなくなりました。病院では比較的容易にゾーニングをすることはできますが、避難所ではゾーニングも困難であり隔離する場所もありません。ゾーニングすること自体、被災者に恐怖を与えてしまいます。また医療従事者だけN95マスクを付けて、ゴーグルをして、ガウンを着て避難所に入っていくと、被災者は怖いと思います。
医療班が来てゾーニングをしていないことを指摘される前は、「コロナになってもお互い様よね、気を付けましょう。」「あの人コロナになったけど、夜トイレに行くのに大変そうやったから手伝ったわ。」「看護師さんこの人体調酷そうやよ。」と被災者の方が情報をくれたりと協力してくださっていましたが、隔離による感染対策を行ってからは「コロナ怖い。」に変わって、「あの人コロナになったから私の部屋変えて。」というひずみが生まれ始めました。罹患された患者の介護的な支援がおざなりになり、バランスが取れなくなってしまいました。避難所では病院でいわれている隔離という言葉を使ってはいけないと、反省しました。

看護師が3名しかいないという状況で避難所の300名以上の方を看ることは困難でした。
そこで、一緒に隔離による感染対策を行った医療班のところに行って、「隔離した高齢者の方が介助なく一人でトイレに行き、転んでしまった事例がありました。避難所での隔離は無理です。教室でインフルエンザやコロナが出たら、教室全体を隔離として、皆さん気を付けましょう、換気しましょうという風にしないと。」と現状を伝えました。
また、80代のお母さんと息子さんが一緒に避難していたのですが、息子さんがコロナを発症し隔離されていました。しかし、息子さんのことが心配だからと、母親が夜中に様子を見に隔離部屋に入ってしまうということがありました。そういったこともあり、避難所では隔離は無理だと思いました。感染対策だけに主眼を置くと、避難者の生活や他の問題を無視してしまいます。現場の活動を通して、注意しなければいけないことやいろんなことが見え、勉強になりました。

断水をしている中での避難

第一陣の災害支援ナースが避難所となっている小学校に行った時は、便器の中が排泄物でいっぱいだったそうです。
仮設トイレも2台ほど来ていたのですが、和式で重くなったら下に落ちるといういわゆるボットン式のもので、引っかかって落ちずに排泄物が盛り上がっている状態でした。
何とかしなければいけないということで、避難所の運営本部と相談し、まずは非常用トイレの使い方を避難所利用者の方に覚えてもらい、持ち回りの掃除班を作りました。
洋式トイレの便器に袋をかぶせ、そこに凝固剤を入れてから用を足して、その中に使用済みのペーパーも入れて、袋を結んで1回ずつ廃棄するということを徹底してもらいました。

使用する物品もすぐ取れるように設置し、袋は手が乾燥していると開けにくいので、最初から開いて準備しておくように工夫しました。
そして避難している子どもたちを集めて、非常用トイレの使い方のポスターを作って貼ってもらうように依頼しました。トイレがこれ以上汚れないように、「綺麗にトイレを使いましょう。」と周知しました。

手を洗う水がないのでトイレの後は、ウエットティッシュで手を拭いてから、必ずアルコールで手指消毒をするように呼びかけました。教室の出入り口や食事を受け取るところにも、アルコール消毒・ウエットティッシュを置き、行動の流れの中でいつでも消毒できるような導線を作りました。災害支援ナースは健康管理とともに避難所の環境整備を避難所利用者と一緒に行い、共働したことでうまくいったと思います。
その他、避難所では体を動かす機会が少ないので、子どもたちが各教室を回り、一緒に体操を行うなど運動不足の解消につなげていきました。

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